将軍権力の創出2014年08月23日 12:20


将軍権力の創出

朝尾直弘著作集の第三巻。将軍権力の創出。それまでの律令制の統治構造から脱却して、武家による統治を達成するまでの道程を、信長から秀吉、徳川では家康から綱吉の頃までにわたって論じる。

・室町時代の後半、政治秩序が混乱して後、信長が登場し、徳川の治世が確立するまで、100年、人生にして2、3代であろうか、近くを要した。一度失った秩序を取り戻すのに、これだけの時間と犠牲を要する。時代は違えど、中東など世界各地の混乱をみるに、まだまだ大変なのだと思わざるを得ない。

・信長というと、戦ばかりが取り上げられてきた印象だが、天下統一が見えてきてから、後の時代に引き継がれる政治的な土台を産み出していたとの一節は新鮮。この点でも彼の存在は画期的なのだと。

・武家にとっては、既存の社会構造や地域を越え連帯する一向宗などの宗教的権威が強敵である反面、戦略を学ぶべき相手でもあった。ここで対応を誤っていれば、宗教的権威に基づく統治がなされる国になっていたかもしれない。武家による統治が選択されたのは、結局、来世利益より、現世利益を選択したということなのか。

・将軍を頂点とする権力機構は、全ての武家にとって「普遍的な利害を代表する機構」としての「公儀」を権威の拠り所に成立する。朝廷の権威を借りては、抵抗勢力によって従前に復しかねない。一向宗などの宗教的権威に対抗できる強力な権威であることも必要。最後はお上に頼る、という根強い発想は、この時以来、よほど強力に浸透したものか。今、「公儀」に代わるのは、「経済発展」というところ。これも揺らいできている。

・国際化が進んでいた時代。東アジアの諸国との交易は盛ん。国内産業の育成よりも貿易に頼る傾向も見て取れる。これに対し、政権が、外交と貿易、為替を独占しようとした結果が、鎖国。以後、国際交流が進まなかったのは、清も海禁政策をとっていたこと、オランダが貿易を独占するため他国を圧迫したことがあり、内政だけが理由ではなさそう。ともかくも自給が必要になり、多様な商品生産が盛んになり、それに伴う流通機構も整備された。しかし、条件が違えば、この時期にグローバル化が進行していた可能性も。

いろいろな「もし」が、気になった一冊。

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