コンピュータの世界の倫理 - CACM 2014年7月号2014年07月12日 09:39

貯まっていた雑誌をようやく片付けたと思っていたら、Communications of the ACM(CACM)の最新号が届く。米国の情報処理分野の代表的な学会誌の一つ。少し前から、技術に関する記事の他、法的な問題、教育の記事が目立つようになっている。

Computing Ethics
今回、教育の記事では、コンピュータの世界の倫理を取り上げる。原題は、Computing Ethicsだが、適切な日本語がない。「情報倫理」「コンピュータ倫理」といった用語が使われているようだが、双方の意味にわたる。

ちょうど、ベネッセとジャストシステムの事件が大きく取り上げられている。コンピュータの教育では、プログラム教育がよく取り上げられるが、米国では倫理も同じくらい重要なテーマになっている。記事にACMとIEEEがまとめたソフトウェアエンジニアリングの倫理規定の抜粋がある。その3.13に、「利用するデータは、倫理的にも法的も正しい方法によって得られた誤りのないものであること、かつ、提供元に認められた利用法に従うこと」(私訳)とある。今回の事件であれば、どちらにも反している。

実際、ここに出てくるような会社であれば、何らかの倫理規程があり、同様なことが書かれていて、従業員も知識として知ってはいるのだろう。ただし、知っていることと、実践できることは別。記事では、アリストテレスやドイツの哲学者Gadamerの言を引いて論じる。そのギャップを埋める実践を、教育の場でどう取り組むか。ここは、哲学が教育に根付いていることを伺わせ、少しうらやましい。

ITのビジネスの現場では、利潤を上げられる機会があれば、それを活かさないのは罪、という風潮があるのも現実。AmazonやAppleがコンテンツ内での高額課金で訴訟を抱えていたり、射倖性の強いゲームで利潤を上げる会社がちやほやされる反面、自ら定めた倫理基準に頑なな任天堂は批判される。

簡単に答えは出ないし、先の哲学者も問い続けること、考え続けることが大事、と言っている様子。目の前の一つの事件だけを見て是非を論じるのではなく、そこでつながっているいろいろをあわせて考えてみたい。