東関紀行、海道記 ― 2020年04月21日 09:23
おくのほそ道(岩波文庫)の解説に、芭蕉が「笈の小文」にて、代表的な紀行文として「土佐日記」「東関紀行」「十六夜日記」を取り上げ、それらを越える新味を目指した、とある。土佐日記は読んでいたので、それではと、東関紀行。
東関紀行は、鎌倉の頃、仁治3年8月中頃の旅立ち。1242年。鎌倉に大仏ができて5年ほど。
海道記も、鎌倉の頃、貞応2年4月上旬の旅立ち。1223年。東関紀行より少し前。承久の乱の2年後。後鳥羽上皇が流されて間もなく。
いずれも、京を立ち、鎌倉まで。経路は少し異なる。東関紀行は、関ケ原越え、箱根越え。海道記は、鈴鹿峠越え、御殿場まわりの足柄越え。いずれも馬を用いているためか、奥の細道よりも行程は早め。
文章とその印象はずいぶんと異なる。東関紀行は、かな文学の体裁。全体は短め。海道記は、漢文読み下しの体裁。それなりのボリュームで、時に興が乗り、思いの丈を記す。例えば、富士山のところでは、竹取物語のあらすじを述べ、不死の山の由来に至る。漢籍の引用が多く、史記や白居易、蘇軾など有名どころを読んでいる方がよさそう。
(そういえば、富士山から水蒸気が上がっているとの記述。この頃は、富士といえば、煙たなびく姿を思い浮かべるのが常だったか)
作者や旅の目的などは、はっきりとは語られていない。
思うに、東関紀行は所用で鎌倉に向かいがてら、メモを残したという印象。かな文学に馴染みのある人物。例えば、田子の浦では、山部赤人の歌を引く。
海道記は、物見遊山とはいわないが、見識を広めるための旅。街道沿いに住む人の暮らしぶりにも目を配る。漢詩文や仏法に近しい人物。事物を見て、漢籍の有名な一節になぞらえ、仏の教えの一節を引く。代わりに田子の浦は素通り。
読み物としての面白さでは、海道記に軍配。鎌倉の頃の人びとの暮らしぶりがわかるのがいい。旅人としての矜持にも共感。
「名ヲ得タル所必シモ興ヲエス、耳ニ耽ル處必シモ目ニ耽ラス(P.88)」
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