根古屋信号所、鴇崎城址、佐原2019年10月09日 19:46

佐原には、利根川沿いのサイクリングロードで何度か訪れているが、もっと直線的にいけないか、内陸ルートを試してみる。

根古屋信号所の辺り

空港支線に沿っていくと、根古屋信号所のある辺り。高架の上。近くの建物は変電所。

空港に向かう京急

振り返ると京急の電車が空港に向かっていく。

東関道

農道を抜けて東関道沿いの道。きつめのアップダウンがつづくが、のんびり行けばなんとか。

大須賀川沿いの道

突き当たって、51号から横芝下総線。大型車の通行が多いので、避けたいが脇道がない。右に折れて大須賀川に取り付く。川沿いの道は、彼岸花が終わったところ。

鴇崎城址

しばらく行くと鴇崎城跡(ときざき)。中世の城跡らしい。

鴇崎城址

こんもりとした30mほどの小山。

大戸川踏切

線路が見えてくると大戸駅。大戸駅の踏切で貨物を見送る。EF65。

佐原駅

線路沿いに佐原駅。アップダウンと51号に気をつければ、なんとか使える。後半の大須賀川沿いの道は、気持ちいい。

道の駅さわら

川沿いの道を河口に向かうと道の駅、水の郷さわら。

地鶏の唐揚げ定食

前回はパスしたので、フードコートで遅い昼食。佐原のご近所の地鶏の唐揚げ。メニューはざっと見たところ、ご近所の方の普段使い向き。

季節外れの桜

裏手の駐車場脇には、季節外れの桜。

野鳥たち

水辺には、白鳥と鴨類が羽を休める。親子連れが近づいても逃げない。帰りは、利根川沿いのサイクリングロード。単調との戦い。

いきなり!ステーキ2019年10月16日 18:44


いきなり!ステーキ

献血の後、血の回復でも、と、いきなり!ステーキに初挑戦。津田沼店のランチは、ワイルドステーキとワイルドハンバーグのコンボ。ごはんの代わりにワインといきたいところだが、献血してすぐなのでアルコールは自重。鉄板は熱いので、お好みの焼き加減になるまで転がす。

ステーキの方は、普段、厚いお肉と縁遠い生活をしているので、結構あごが疲れる。噛み応えのある肉らしい肉といえばそう。あごに自信の無い方は、柔らかい肉質のメニューをどうぞ。ハンバーグの方は、うって変わってふわふわ。これで税抜き1250円。おいしく焼く自信が無い向きには、お手頃。

ここでも狂い咲き

散歩しながらの帰宅。途中の桜並木は、ここでも狂い咲き。

ソシオエコノミックス、西部邁の経済思想入門2019年10月18日 16:37


ソシオエコノミックス

昭和50年刊。1975年。学生時代の参考書を発掘。西部氏の最初の頃の著作。

最初の数頁で、たいへん読みにくい本であったことを思い出す。特にプロローグが厳しい。用語に、その用法も独特。「頭のいい人」の文章。多数の文献とその研究を踏まえた本であるが、そこから導かれる道筋をかみ砕き、再構成することなく提示する。おそらく著者は、多数の研究をそのままの形で頭に入れ、自由に出し入れできる才の持ち主。そうでない読者は、自らかみ砕き、再構成しながらでないと、論旨が頭に入ってこない。

しかし、経済学の諸理論が単純化に走りすぎ、人間や社会といった複雑なものとの関連を忘れがちであり、専門分化した諸学問は協同して、この複雑な対象を解明すべき、との視座は確か。

「あれこれ間に合わせの政策提案を根拠づけるために消費者主権や生産者主権といった「虚偽の意識」を持ち込むより、現実がどうであるかということにかんするイメージを確かなものにするほうが優先する(P192)」といったあたりは、今そこにある社会とその成り立ちを見据えるべきとし、将来の保守の論客としての立ち位置を予感させる。

「孤立学として発展してきた経済システムは、人間と自然と社会組織を破壊する(P267)」と論破し、当時の公害問題を踏まえつつも、現在進行中のグローバル化やSNSなどのコミュニケーションツールを用いた経済行動の弊害をも予見する。

「必需品とは、共同の社会的枠組みをつくり、そのことによって社会の安定に寄与する財のこと(P290)」といい、幸福や平等といった理念のレベルで思考を止めるのではなく、実質に考えを進めて答えを導く姿勢を求める。

学問の過程を、直感、仮説の定立、検証、実践、と進むものとすれば、本書は直感の少し先に位置するくらい。本書では、実践に身を投じた宇沢氏を評価するふうでありながら、本人は経済学と距離を置き、論客として活躍することになる。

西部邁の経済思想入門

2012年刊。こちらは、増補分を考えれば、最後の方の著作。

はじめに、で、経済学と距離を置いた理由を告白。いろいろわかってしまった、というところなのだろうが。これが、数理の世界なら、わからないことが自明、となったはずだけど。

本書は、うって変わって読みやすく、わかりやすい。順番からいうと、こちらを頭に入れて、ソシオエコノミックスを手に取るのが正しい。経済学における研究の過程が、その研究を生み出した社会的要請に、その後の評価と共に整理されている。著者のバイアスがあるにしても、十分、中立の立場で、現在での評価を示してくれる。

合間に主張される論は、ソシオエコノミックスでなされた論と驚くほどぶれがなく、一貫している。最後の章「総合の経済思想」は、学際研究が必ずしもうまくいっていないことを示しつつも、経済学を含む社会科学の可能性を信じる言葉で閉じる。